1.
寝苦しい熱帯夜。
魂が体を離れ、幽鬼となって星々の間を駆け回る、そんな夜だ。
夏江は寝返りをうった。
するとその頬をつぅーと涙が伝うのだった。
寝苦しい熱帯夜。
夏江は何とはなしに小学生の頃行った夏祭りの情景を思い浮かべていた。
りんご飴にかぶりつく夏江の手を父親が引いている。
遠い遠い昔の日々…。
ふと夏江は金魚すくいの店の前で足を止めた。
父親が何か言っている。
夏江は父親から100円玉を貰うと、お店の人にそれを渡し、薄い和紙の張った網を受け取った。
実際は、夏江は金魚すくいなどしたことはない。
夏江の中にある幼い願望が、記憶と想像をゴチャゴチャにかき混ぜる。
網を構えて狙いの金魚を探す。
あの綺麗な赤いのにしようか?
それとも頭にハートの白い模様の入ったやつにしようか?
背後で父親が叫んでいる。
その声は祭りの喧騒にかき消され、夏江の耳には届かない。
ふと目を落とすと、目がひとつ潰れて尾っぽがふたつある金魚と目が合った。
夏江はぎょっとした。
ぎょっとしたが、網は自然とその金魚の方へ伸びていく。
父親が頭を抱えながら怒鳴っている。
夏江は顔を上げた。
目の前にノッペラボウの店員の顔があった…。
2.
熱で歪んだ時間が、不規則に結びつく。
金魚すくいの網は虫取り網に変わり、夏江はいつの間にか暗い森の中にいた。
カナカナカナカナ…
ヒグラシの泣き声が聞こえる。
それ以外、鳥の鳴き声も虫の鳴き声も聞こえない。
夏江の影がすぅーと伸びてゆき、木々の間を太陽がすごい勢いで落ちてゆく。
カナカナカナカナ…
カナカナカナカナ…
日が沈む。
カナカナカナカナ…
カナカナカナカナ…
日が沈む。
カナカナカナカナ…
カナカナカナカナ…
そして、森は闇に包まれた。
夏江の持つ虫取り網の中で、何かががさがさ動いている。
手を入れて取り出して見る。
ヒグラシが30匹、溶けてグチャグチャに融合していた。
ガナガナガナガナ…
ガニャガニャガニャガニャ…
ノッペラボウの猫が目の前に現れ、ヌーと夏江の顔を覗き込んだ。
3.
夏江は跳ね起きた。
自分が今何を見ていたのか、わからない。
寝ていたのか?
ただの妄想か?
寝巻きは汗でぐっしょりぬれている。
息が荒い…。
「水…」
夏江はゆっくりと立ち上がり台所へ向かう。
障子を開け、ふらふらとした足取りで縁側を歩く。
庭の池で金魚がチャプンと水音を立て、生暖かい一陣の風が吹き抜けた。
ガニャガニャガニャガニャ…
ガニャガニャガニャガニャ…
虫の声が響いている。
突き当たり、ゆっくりと廊下を曲がる。
喉がカラカラに渇いている。
台所までもう少し…、夏江は思った。
雲が切れ、空に赤い満月が姿を現した。
夏江は足を止める。
台所に誰か人の影が見えるのだ。
寝巻きを着た女だ。
長い髪が顔を隠している。
心臓が早鐘を打った。
女がゆっくりと顔をあげる。
夏江は絶叫した。
女はゆっくりと夏江に近づき、すぅっと夏江に重なり、そして消えた。
夏江は何もいない空間に絶叫をあげ続ける。
空を再び雲が覆い、赤い満月を隠す。
廊下が闇に包まれていく。
夏江は絶叫をあげ続けている。
月が完全に雲に包まれ、闇に支配される。
濃厚な闇の中、夏江の絶叫だけがいつまでも響いてゆく。
夏江が見た女、それは、ノッペラボウの夏江自身だった。