世界銀行

1.

風が吹き真っ白い煙が舞い上がったと思ったら、全ては雪に覆われていた。

父の死を忘れ、冬の早朝の青い冷気を胸いっぱいへ吸い込むココ。
きょとんとこちらを覗うユキウサギ。
太陽は既に高く、どこまでもキラキラと輝く雪。
辺りは辛気臭いココの家とは裏腹の真昼の真っ白な雪。
父と二人暮しだった家は、今は大きすぎる存在となり、ココを飲み込もうと背後で口を開けている。

ココは小さくくしゃみをして、その後あくびをし、またくしゃみをして、身震いし、ポケットへ手を入れた。
今年の冬はまた格別に寒い。ココはそう思った。
父の死が彼にそう感じさせただけかもしれない。
そんな寒さの中、父が唯一残してくれた形見のコートが、彼を寒さから守ってくれる。
ココは更に深くポケットへ手を突っ込み、更に大きく身震いをした。
身震いは空気を震わせ、雪を震わせ、輝く陽光をシベリアの凍土と化してゆく。

コン。振動する指に小さく当たる感触があった。
ゆっくりと取り出してみる。

小さな鍵であった。
ココは首を傾げた。
彼の家はとても貧しい。
家にあるのは小さなテーブルと歪んだベッド、小さな暖炉に古ぼけた椅子。
備え付けの戸棚はあるが鍵はついていない。
その日の蓄えをその日のパンに変える彼ら貧民には、鍵を必要とする物などひとつもないはずであった。

鍵を目の前でクルクルと回してみる。
『セカイギンコウ』と飾り細工で掘り込まれていた。
世界銀行? 聞いたこともない。
理由もなく、ココは苦虫を噛み潰したような屈辱を覚え、鍵を乱暴に元のポケットへ突っ込んだ。
もう父はいない。今日からココはひとりで食べていかなくてはならないのだ。
もう父の作ってくれたキャベツのスープを飲むことはできない。働かなくては。
ココは鍵のことを忘れ、食べ物を探しに白い口を明ける混沌へ出かけていくのであった。



2.

たしかに昼からの出勤であった。
だが、5時間労働し得たお金が銅貨3枚とはどうであろうか?
これでは、小さなライ麦パンが1個半買えるだけであった。
今月の家賃も払わなくてはならない…。
得たはずの銅貨が、まるでお金を落とした時のようにココの心をえぐりとる。

「帰ろう…」
ココの声は目を横切るボタン雪に静かに押し潰されていった。

ココが陰鬱な気持ちで銅貨を握り締め家へ帰ろうとした丁度その時であった。

「もし、そこの方」
背後で声がした。
振り返ると、そこにはダブダブの背広を着て、シケモクをふかしている小さな男が立っていた。

「ししし。あなた、今貰った給料を当銀行に預けてみる気はないですか?」
男はあごひげをボリボリ掻きながら尋ねた。
目にはびっちりヤニがこびりついている。

ココは真冬のバラのような殺意を抱き、吐き捨てるように言った。
「僕のような工場務めが預けるお金なんて持っているはずないだろう!」
そう言って踵を返す。

「ちょ、ちょっと、待って下さい」
家へ向かうココの横へ男が駆け寄ってきた。
目ヤニだらけの顔で、下からヤモリのような目つきで覗き込む。

「こうしましょう」
男は汚い歯を見せて言った。

「ししし。あなたは今日3枚の銅貨を貰ったでしょう?」
ココは足を止めた。

「ししし。何故知ってるかって?
まぁ、秘密ですがね。実は私あの時向かいのビルから工場長が給料を配るところを見てたんですよ」

「こいつでね」
男は片眼の割れた双眼鏡をポケットから取り出して見せた。

「ししし。まぁ、こいつは私の商売でもあり、趣味でもあってね。ししし」
ココは胃の中に虫が湧いたような不快感を覚えた。
まるで自分が蟻になって、その他の巨大な生き物から軽蔑の眼差しを向けられているようだ。

「あ、申し送れました。
私こういうものでして。ししし」
男がふやけてグチャグチャになった名刺を差し出した。

「さぁ、受け取って。
なぁに、名刺はタダであげますよ。サービスですよ。ししし」
男はココの手に名刺を押し込んだ。


 『世界銀行
  代表取締役 ケルーラ・ジェケケ』


世界銀行だって!?
ココは目を丸くした。
目は白夜の太陽のように丸まり、溶けて脳へ沈んでいった。

「ぼ、僕、鍵を持ってます」
ココは汗ばむ手でアタフタとポケットから鍵を取り出す。
貧民特有のくすぐったいナメクジのような期待がココの心臓を嘗め回している。

「お、これはうちの貸し金庫ですね。
何だ、もうお客様でしたか。ししし」
男は嬉しそうに目を細めあごひげを弄りながら答えた。

しかしそれも束の間。
「だが…、いやいや…、しかし…、お客様は…?」
男は首をかしげた。

「私はお客様の顔を全て覚えているのですが、あなたの顔は見覚えがないですねぇ」
爪の垢を穿りながら男は言った。

「実は、それは父のものなんです。
つい先日死んだ父の…」
喉がカラカラに干からび骨に張り付く。

「あ、なるほど。そうですか」
ココの言葉を遮って男が言った。

「なるほど。ししし。見覚えが。ないわけだ」
前髪を指で摘みプチンと音を立てシラミを潰した。

「それだと、この金庫の中身は本来はお父様のものですが…」
「う〜ん…、う〜ん…」
「まぁ…、良いでしょう。
鍵を持っていることですしあなたへお渡ししましょう」
「さぁ、私が銀行まで案内しますよ。ししし」
男はココの前に立ち、狂った調子の口笛を吹きながら歩き始めた。

日はいつの間にか沈み、背後でオーロラが光っていたが、ココはそれに気がつかないほど興奮をしていた。
「お金が入ったら、まずは肉。肉が食べたい…」
ココの頭の中は、既に紙よりも軽い金貨でいっぱいであった。



3.

ココは銀行に居た。
ケルーラ・ジェケケと名乗る例の小男と銀行に居た。
そこは裏通りの黴臭い地下室で、そこかしこにネズミが這い回っていた。

「ししし。私どもの商売はですね。
普通の銀行と違うのですよ。ししし」
小男がココに話しかけていた。

「普通の銀行はですね。
お客様から預かったお金で投資や株などの資産運用で設けるわけですが…。ししし。
私どもの銀行は、世界と世界の間の貨幣価値の差分で利益をあげるのですよ。ししし」
そういうと男はドアを開けた。

「ししし。この世界の銅貨1枚でですね。ししし。
私どもの世界ではですね。ししし。
100年は遊べる価値があるのですよ。ししし。
よかったら、その3枚の銅貨のうち1枚だけでも預けてみませんか?ししし。
利息はあなたの望む形でお渡ししますよ。ししし。ししし。しししし」
早口でしゃべりながら男はココの前に厳重な手提げ金庫を置いた。

「さぁ、どうぞ開けてみて下され。ししし」
ココは震える手で鍵穴へ鍵を挿しゆっくりと回してゆく。

キィーギッ…ギッ…キキッ…カチャリ。

不気味な音を立て金庫が空いた。
中には山羊革の表紙の一冊の本。
ただそれだけである。
ココはガックリした。
財宝とまではいかないにしても、宝石のひとつくらいはいっているののでは、と期待していたのだ。
あまりにガックリしすぎてココの肩は足首よりも下まで垂れ下がってしまった。

「ししし、どうやら日記帳のようですな」
男は潰れたシラミのついた指で日記帳をココへ渡した。
ココはすっかり元気を失くし、うな垂れて、日記帳をポケットに突っ込み、入り口へとトボトボと歩いていく。

男の前を通り過ぎるとき、男が唾を垂れ流しながら言った。
「ししし。望むものではなかったですか?
どうですか。それなら当銀行に預金してみませんか?
望むものが手に入りますよ。ししし」
ココは男を見ずに銅貨を3枚全て放り投げ、銀行を後にした。

「まいど。ししし」
背後では、暗がりの中ケルーラ・ジェケケがギラギラと光るギンギツネの目で銅貨を拾い集めていた。



4.

翌朝、空気が雪に埋もれた朝、ある一件の家の煙突からオレンジ色に光る煙がたなびいていた。
ココの家である。
部屋にはキャベツのスープの微かな香りがゆっくりと漂う。
死んだ父の香りである。
ココは暖炉の前で目を閉じゆっくりと椅子を揺らしていた。
手には父の日記帳が握られているが、目は中空を漂っている。
何があったかはココにもわからない。
わからないが、なにか世界が歪に捻じ曲がってしまったことは理解した。

「望むもの…」
ココは呟いた。
目を瞑り、小さいころに見た七色に光るオーロラを思い浮かべようとしたが、銅貨を集めるケルーラ・ジェケケの目が何時までも脳裏によぎり、オーロラはもう思い出すことはできなかった。
頬を涙が伝い、ココの意識は静かに眠りへ沈んでゆく。
手から日記帳がコトリと落ちた。

パチパチと音を立てる薪。
パラパラとめくれる日記帳。
音もなく降り続ける雪。

ココは不思議に思った。
何故日記は、父の死んだその日まで書かれていたのだろう?
何故父は、日記帳を金庫なんかに保管していたのだろう?
小男の言った違う世界は本当にあるのだろうか?
あるのであればその世界はどこだろうか?

日記帳は最後までめくれ、のっぺらぼうのように現実から離れてゆく。
ネズミが一匹床の隙間から現れ、小さくチュウと鳴いた。
すると、スーと部屋が暗くなりパチパチと薪の弾ける音だけがいつまでもいつもでも木霊するのであった…。