ヨッパ谷への降下(筒井康隆の同名小説のアレンジ)

1.

「食われちまったぞ!」

白い…。 白い…。 幾本もの白い糸。 幾層もの絹の壁。
柔らかい。 甘い。 優しい。

  「食われちまったぞ!」

縞模様じゃない透けるような真っ白の体。 ふくよかな下半身。
長年連れ添った彼女。
彼女の唇が近づく。
口付けをした。

  「食われちまったぞ!」

杜若のような甘い香りが辺りに充満していた。
俺は死んだのかなぁ。
三郎太は思った。
彼女の体が重なる。
朱女の体が重なる。
体の力が抜け体重がゼロになり、三郎太の思考だけがゆっくりと自由落下していった。




2.

「ごはんできましたよ」

朱女の声が聞こえてくる。
瞼が開く。
白い瞼が開き、違う白の世界が飛び込んくる。 陽光だった。
目蓋というフィルタが剥がれて、夏の日差しが容赦無く眼球に飛び込んでくる。
二、三度軽く瞬きする。

  三郎太は瞬きのとき瞼の裏が黒に変化したことに気がついていない。
  もしかすると目覚める直前――夢との境目で白い瞼を眺めたことにも気がついていないのかもしれない。

「三郎太さん、起きてくださいな」

時計を見ると太い針が8を指していた。

  ミーンミンミンミン…
  ミーンミンミンミン…

外から蝉時雨が聞こえる。

  ぐぅ。

脳みそと不連動で胃袋が目覚め瞬きを始めた。
蝉と同じで俺の腹もがらんどうのようだ。
しかし、同じがらんどうでも鳴き声の大きさは大違いだ。
あの蝉達はよほど腹が減っているのだろう。
朱女の飯はうまい。
焼き魚をつつき、ご飯を放り込み、味噌汁で一息つく。 陽光がキラキラと光り、その中で朱女が静かに微笑んでいる。
考えただけでも幸せな時間だ。

  三郎太は既にさっきまで見ていた夢のことを忘れている。

頭を軽く揺すり俺は食卓へ向かった。
魚の良い匂いがぷんと漂ってくる。

「あら、おはようございます、ねぼすけさん」

飯を食べながら話をする。

「今日は桐吾達とちょっと出かけてくるよ」
「帰りは遅くなるんですか?」
「うーん…、3時前には帰れると思うが…。
 そうだな、昼飯は用意しなくて構わない」
「わかりました。 久しぶりに会うんですもの、楽しんでらしてね」

朱女が笑いながら返事を返してくれる。
俺は何よりこの笑顔が好きなのだ。
照れくさくなって、ご飯をかっこんだ。
外では蝉の声が一段と大きくなり、その大きさゆえに蝉の存在を陽炎のようにぼかしている。
そこにいるのは蝉ではなく蝉の声、そんな気がした。




3.


  ミーンミンミンミン…
  ミーンミンミンミン…

三郎太は待っている。
村唯一のバス停で待っている。
桐吾達の来るのを待っている。
約束の時間まであと3分だ。

  ミーンミンミンミン…
  ミーンミンミンミン…

  ミーンミンミンミン…
  ミーンミンミン…

蝉時雨がぴたりと止んだ。
それは音の限界だったに違いない。
空間に飽和した蝉の鳴き声は三郎太の周りで、赤土の層のようにべったりと壁を作っている。
そこへ桐吾と明人が肩で息をしながら駆け込んできた。

「どうしたんだ。 約束の時間はまだオーバーしてないぞ」
「はぁ…はぁ…あけ…ぜぇぜぇ…朱女が…ごくん…」

三郎太の背中に冷たい汗が流れた。
桐吾は毎朝不知ヶ岩の辺りを散歩する。
不知ヶ岩はヨッパ谷の吊橋を渡り山道を三十分程登った所だ。
白い巨大な岩が人知れず静かに佇んでいる。
朱女は毎日森に山菜摘みに出かける。
桐吾は朱女が好きであった。
三郎太も朱女が好きだった。
山奥の辺鄙な村では恋愛結婚は寧ろ特殊であり、そういった意味では身を引いた桐吾が正常であり、恋愛結婚した三郎太が異常である。

「ちょっとからかうつもりだったんだ…」

桐吾が話す。
お互い所帯を持った安心感からだろうか?

「本当に…本当に…冗談のつもりだったんだ」

桐吾はヨッパ谷の吊橋で朱女とすれ違った。
すれ違い様に朱女の胸へと手を伸ばしたのだ。

「すまねぇ…、すまねぇ…、三郎太」

桐吾に悪気がないのはわかっている。
だが、そういった冗談を朱女は非常に嫌がる。
朱女は身をよじって避け、その拍子に吊橋から足を踏み外したのだった。

「桐吾、ザイルを持って吊橋に来い」

いつかこういうことになるんじゃないかと思っていた。
両足を縺れさせながら吊橋へと走った。
10分後、ふたりは吊橋の袂にいた。




4.

吊橋で桐吾がザイルを見張っている。
三郎太はザイルを使いヨッパ谷を降下しているのだ。
三郎太の眼下の谷一面にヨッパ蜘蛛が巣が広がっていた。
ヨッパ蜘蛛は体長2ミリ程の白い小さな蜘蛛で、この地方にしか生息しない。
谷に巣を張ったヨッパ蜘蛛は谷底の川から飛び跳ねる魚を食べていると言われている。
ちょうど三郎太の真下に朱女が落ちたと思われる巣の裂け目が見える。
朱女が蜘蛛に食べられてなければいいのだが。

そういえば、以前にも朱女が行方不明になったことがあったなぁ。
ザイルを使いゆっくりと谷に降りながら三郎太は思った。
その時、朱女は自宅の屋根裏にいた。
それはずっと昔の子供の頃。
何故三郎太がそれを今まで忘れていたのか、何故今急に思い出したのか、それはわからない。
だが、三郎太はザイルで谷底へ下りながら昔のことを少しずつ思い出していった。

あの時はかくれんぼをしたんだった。
三郎太の家は旧家で広い。
近所の子供たちが10人くらい来ていたと思う。
桐吾もいたような気がする。
そうだ、桐吾が鬼だった。
三郎太は一番最初にみつかり、暇を持て余していたのだった。
朱女は、朱女はどこにいたっけ?
暗い押入れの奥に顔のない朱女が浮かんでいる、そんな霊的な思考が巡る。
食卓の下の朱女、屋根の上の朱女、長持ちの中の朱女、地下貯蔵庫の朱女、…全て顔がない。
ザイルはどんどん降りていき、三郎太の周りに絹糸のような霞が纏わりつく。

霞…絹糸…白い糸…そうだ。
思い出した。 朱女はあのとき屋根裏に隠れていたのだ。
朱女以外全員がみつかったが、ただひとり朱女だけがみつからなかったのだ。
桐吾が降参して、みんなで声をかけたが返事は返ってこなかった。
朱女は途中で帰ったのだろうと思い、みんなで違う遊びをしたのだ。
だがそれは違った。
夜になり、日が沈み、みんな帰り、夕食を向かえ、月が雲から顔を出しても、まだ朱女のかくれんぼは続いていた。
夜も更け布団に入ったときだった。
ちょうど俺の部屋の天井裏からごとっという音を聞いた。
しんと静まり返った夜だからこそ聞けた僅かな音。
始めはネズミと思った。
だが、ネズミにしては音が大きい。
もしかしたら死期の迫ったネコでも迷い込んでいるのかもしれない。
度胸だけが自慢だった俺は、怖がっている自分を無理やり押さえつけて天井へ様子を見に行ったのだった。
だが、果たしてそこにいたのはネコだったか?

いや、ネコでもネズミでもない。 朱女だったのだ。
真っ白な蜘蛛の巣の中で安らかな顔で目を閉じた朱女だったのだ。
最初、俺は朱女が死んでいるのかと思った。
だが、近づくと寝息でかすかに胸が上下しているのが見えた。
蜘蛛の巣を掻き分け助けに向かっている三郎太の前に、すぅっと蜘蛛が降りた。
真っ白の小さな蜘蛛。
ずっと日に当たってないからだろうか?
三郎太は考えた。 俺は考えた。
あの後、どうなったんだっけ?
蜘蛛が俺の周りに巣を張り巡らせたような気がする。
三郎太は濃厚な霞の中心に差し掛かった。
暫くすると、もう俺の足は床には着いていない。
シュルシュルと音を立てながら蜘蛛が俺の周りに糸を張り巡らせる。
白い糸はやがて白い壁となり、くすんだ床はくすんだ糸になる。
そして三郎太は白い糸と白い壁と白い床に覆われた。
もしかしたら、降りてきたのは蜘蛛ではなく三郎太だったのかもしれない。
巣を張り巡らせているのも三郎太かもしれない。
三郎太は谷を降りていたのではなかっただろうか?
ザイルを巻きつけ、今見た蜘蛛のように谷を降りていたのではなかっただろうか?

  「食われちまったぞ!」

上から桐吾の声が聞こえる。
朱女はどこへいったのだろう?
ここにいるのだろうか?
脳みそに蜘蛛が入ってしまったのだろう。
三朗太は蜘蛛の巣を振りほどく事を考えていない。
思考は渦を巻き内耳の迷路でガンガンと反響し、やがて一本の糸に収束する。
ただ、朱女のことにのみ収束する。
三朗太は朱女を探しに来た理由も忘れている。
蜘蛛の巣のような頭に浮かぶのは朱女の笑顔だけだった。
それはとても幸せなことだ。
ただ、三郎太にはさきほどからひとつだけ気になっていることがあった。
ところで朱女って誰だっけ?




5.

  「食われちまったぞ!」

切れたザイルを引き上げながら狂ったように叫ぶ桐吾の声が聞こえる。
だが、その声も霞のようにおぼろげで、そしてゆっくりと霧散する。
透き通るような白い蜘蛛が崩れていく三郎太の体内へ潜り込んだ。
三郎太は砂になり、蜘蛛と一緒にその場にサラサラと崩れ落ちた。
砂になった三郎太は何の咎めもなく、再び過ぎ去った未来をぼんやりと考えることができる。
今日という日付が終わり、再び白い明日へと進むのだ。

「ごはんできましたよ」

朱女の声が聞こえてくる。
明日も晴れるかな?
晴れたら朱女と一緒に釣りに行こう。
川の下流へ山女を釣りに。
獲れたての魚の中で朱女と一緒に虹色の国家を築くんだ。
だから虹色は赤い目の自動販売機なのだ。
朱女が言った。

「つまり冷めた大陸間弾道ミサイルのグループに入るわけですね」

三郎太が答える。

「墓標と白黴でできたパンってことかな?」

朱女は立て札を立てる。

「消しゴムの角って理知的だと思わない?」

三郎太は南南西へ向かった。

「そこのご老人、ポルトガル語を見ましたか?」

朱女の右目。

「それはとても難しいことです」

三郎太と白い照葉樹林。

「5+6を考えよう」

朱女は蜘蛛だ。

「私はヨッパ蜘蛛の女王です」

三郎太は落ちている。

「俺はヨッパ谷を落ちている」

  ざぶん。

水しぶきを上げて、三郎太は谷底の川に落ちた。
頭上ではヨッパ蜘蛛の巣が陽光を反射してキラキラと光っている。
川原で朱女が手を振っていた。
なんら不思議なことはない。
三郎太も朱女も村人みんなヨッパ谷から生まれヨッパ谷へ帰るだけである。
全てはただヨッパ谷への降下なのである。