闇夜の月 −2003.10.23日記−

曇天の空に亀裂が入り、隙間から陽光が世界を照らし出す。
昨夜あれほど幻想的だった路地裏は、一瞬にして安っぽい雰囲気となった。
ノラ猫もどこかへ消えてしまったようだ。
世界は元に戻ったのだ。 今日から再び動き出す齷齪とした日常。
ただ、無機質なアスファルトに不似合いな枯葉だけが昨夜の名残を留めている。
その枯葉すらも、今や陽光により浄化され、茶色の土くれに戻ろうとしていた。

クリープを大量に入れたコーヒーを口に含みながら、昨夜のことを思い出す。
月のない真っ暗な夜。 黒の森かはたまた霧夜のロンドンか。
姿のない猫の声だけが木霊する、そんな夜。
私はベランダから見るこの風景が好きだった。
その日のような闇夜も、月光が差し込む神秘的な夜も。

そして、その日もいつものようにベランダから大好きな路地裏を眺めていたのである。
聞くとはなしに猫の声に耳を傾ける。
他には何も音のない無音の夜。
まるで、空気の粘度が高まって音の伝達速度を鈍らせている、そんな夜。

一分だったか一時間だったか、気がついたときには私は路地裏に立っていた。
元いたベランダを見上げると、そこに見えるは部屋の逆光に縁取られた男の影。
不思議な夜だった。
体はふわふわしまるで綿毛のようで、意識は常に自分の一歩後ろにあった。
にゃ〜にゃ〜、近いのか遠いのか、猫の声が響いてくる。
体が浮かぶ。 中に浮かぶ。
雲が天を隠すなら、私が代わりに世界を照らし出す月になろう。
私は浮かび、丸まり、鈍い光を放ち、深い眠りにつくのだ。
風にのって、世界の声が聞こえてくる。

「月が出たよ」「月が出たね」
「明るいよ」「明るいね」

本当に明るい。 世界は明るい。
それでいて綺麗で、幻想的で、脆くはかないものなのだ。
太陽の暴力的な光では強すぎる。
青く弱い月の光の下で、普段見えない色々なものが見えてくる。 色々な音が聞こえてくる。
電信柱の世間話、車の上で歌う虫たち、風に乗り航空飛行を楽しむ落ち葉たち。

そんな世界の喧騒を聞きながら、私は深い眠りへついていく。
月のない夜、一度だけ許された幻想的な夜。
瞑った目で自分を見下ろす。
ベランダにも路地裏にも、じっと動かない男の影が見える。
あぁ、眠い…。 とても眠い…。
寝よう。 全てを包んで。 全てに委ねて。

コーヒーの最後の一口を啜りながら、そんな不思議な秋の夜の話を思い出していた。
肩には、路地裏のものと同じ枯葉。
向かいの喫茶店からバラードが流れてきた。