時の静息 −2002.9.2日記(一部改変)

「はて、私はいつの間に海に来たのだろう?」

私は鞄を手に首をかしげる。
会社が終わり、上司に別れの挨拶をしたところまでは覚えている。


「今日は友人と居酒屋で待ち合わせが会ったんだがな」

そうひとりごちて目を時計に落とすと、時計の針は6時23分を差して止まっていた。
安物はこれだから困る…。

時間のわかるものはないかと辺りを見渡す。
太陽がオレンジ色の光線を出しながら、半分だけ海から覗いていた。
どうやら時計が止まったのはついさっきのようだ。

背後でポンコツのような車が、どす黒い排気ガスをもくもくと上げながら走っていった。
それにつられるように後ろを振り返る。
さっきまでいたと思われる街が、まだすぐそこに見えていた。
今戻れば十分間に合う時間に違いない。


しかし、私は誰と待ち合わせをしていたのだろう?
一体、どこの居酒屋で待ち合わせをしていたのだろう?
そもそも待ち合わせなどしていたのだろうか?

「やだなぁ…、ど忘れしちまった」

軽く頭をふって、もう一度街に視線を戻す。
人は見えない。
けれど至る所から喧騒が聞こえる。
飲み屋には既にネオンが灯り始めていた。


私は振りかえり少し海を眺めると、街とは逆に歩くことにした。
街から離れ、背後から聞こえる喧騒は無機質なノイズとなり、ネオンはただの色となる。

ゴォゴォと音を立てて脇を車が通りすぎて行く。
どの車も中は真っ暗でただ道路の先へと機械的に走っている。
横を見ると、夕焼けのオレンジ色を、影に黒く縁取られた工場が鋭角的に切り取っていた。


工場は辺りを黒く侵食しようと、必死に黒い煙と排水を吐き出している。

遠くからは犬の遠吠えが聞こえてくる。
きっと犬も黒い犬だろう。
工場に真っ黒く染め上げられてあんなに悲しそうに泣いているのだろう。
プカプカと浮かぶ魚の死体を、横目で見ているとそんな取りとめもないことが頭に浮かんだ。


ポー。
線路をおんぼろ機関車が世界の果てに向かって走ってゆく。
中に乗っているのはやはり黒い人々…顔も体もない輪郭だけの人々。

沈みかけた太陽が膨張して、暴力的なオレンジ色で世界を染めようとする。
世界はオレンジ色と黒…それだけの色…。


今、私は世界のエントロピーが最大になる地点に来ている。
今まで距離だと思って歩いてきた道は時間軸で、世界はもう滅びのときまで来ている。
背後には煌々とした街の灯り…でも、もう戻れない。
私はただ前へと歩いて行く。


空に星が輝く頃、私は岬についた。
行き止まり……世界は滅びてしまったのだ。
折角動き出した時計の時針は、わずか数十回の回転で止まってしまった。

どうやらここまでのようだ。
私は何もせずにそこに突っ立っていた。
そうして、何時間も頭上に輝く地球の破片を、ぼーっと眺めていた。

夜は開けない。
終焉を迎えた時間の中で、私は永久に立っているのだ。
頭にその考えがよぎると同時に、私の足は真っ黒な海の中へと入っていった。